ゴースト~秋田の幻たち

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『ゴースト~ニューヨークの幻』という映画があった。

陶芸家のデミ・ムーアは良かったが、その後ろからヌッと出てきて卑猥なことをする顎の割れた夫のほうはあまり印象がない。

こういう「偏った見方」をする傾向がボクにはある。

「ゴースト」っていいなあ、透明人間みたいに相手には見えなくて好き勝手できるからいいなあ、と思ったものだ。

まあ、それはいいとして。

ボクと妻も「ゴースト」である。

こちらは全然好き勝手できない「ゴースト」である。

一切名前は出ないところだけ「ゴースト」である。

依頼者が作者になってしまうため、あくまでも「黒子」であって、ボクらは一切脚光は浴びない。

依頼者に「脚光を浴びさせること」が仕事である。

そういう仕事をお互い長くやっていると、そういう原稿が世の中に出て、そこに自分ではない作者のコメントが載っていて読んだりする場合がある。

「へえ、そうだったんだ~!」

などと、自分が書いたことを忘れて、作者の「あとがき」に感心したりする。

そんな素直でかわいいボクらは『ゴースト~秋田の幻』たちなのである。

言葉不要論。

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今日あるラジオのお話を聞いていて、涙が出て止まらなかった。

今でもまだ残尿感、いや「残涙感」がある。

話の中身はさておき、ボクはある大きな事実を突き止めた。

それは表題の「言葉不要論」である。

つまり、人を心底感動させるには言葉など要らないということだ。

どーゆーことかというと、

ボクは、話者が感極まって思わず「絶句」してしまった「たった3秒」のところで、ぶわ~~~っと泣いたのだ。

そこまでは何とか堪えられていたのに、言葉が切れた途端に、ぶわ~~~~っと泣けてきたのだ。

涙のダムを仕切っている「涙腺という関所」。

話者とボクとの間に、その関所の共有化が一気に進んだのだ。

その結果、「話者も泣き、われも泣く」という事態が現出したのである。

いわば「感情ダムの一斉決壊」である。

もう一つの理由は、この話をテレビで見たのであれば、こんなにもボクは感動はしなかっただろう。

ラジオという「耳だけ」の感覚器官から、ダイレクトに脳に入った情報だからよかったのだ。

目は口ほどにものを言う、というが、耳は目以上にものを言うようだ。

そんな原則原則を発見したのだが、「言葉不要論」はいささか大げさだったかな?

糸電話のように。

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妻が仕事で「忌み言葉」とか「女房言葉」を調べていて、行きついたサイトの一つがこのブログだったそうで。

そう言えば、かつてそんなことを書いたような気がする、と思った。

「まあ、あなた、ずいぶん出世したのね!」と言われたが、、その割には仕事上の成果は少なかったのだそうだ(汗)。

ボクと妻は、年がら年中隣り合って仕事をしている。

半径1メートル以内に、お互いの仕事エリアがスッポリ入る。

なので、ボクが書いた文章はインターネットの「WWWサーバー」を経由してぐる~っと世界を回って、最終的に半径1メートルのお隣りさんの所にたどり着いたというわけだ。

まるで「糸電話」で話しているような、なんだか不思議な気持ちだった。

口へんに夏。口へんに秋。口へんに鼻。

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しゃがれ声の妻が言う。

「あら、何だかワタシ、口へんに夏だわ」

分かりますよね。

口へんに夏で「嗄」(しわが)れる。

しゃがれるとも読む。

「口へんに夏だわ・・・」

妻は、声がしわがれたと言っているのだ。

口へんに秋という字もある。

「啾」(な)く。

小さな声ですすり泣く。

小さい子どもの泣き声。

鳥や虫などの(細く低い)鳴き声のことである。

口へんに鳥も「鳴」く。

確かに鳥はよう鳴くわなあ。

かあ、かあ、ピ~ピ~。うるさいもんね。

ところで、口へんに鼻ってありますね。

読めますか?

「嚊」。

かか、かかあ、はないき、と読みます。

はないきは「荒い鼻息」とか「いびき」のこと。

「かか」「かかあ」は妻をぞんざいに呼ぶ語。=嬶

鼻の悪いボクですが、まさかまさか愛妻をそんなふうには呼べません。

ボクの辞書では「嬶」は「おかかどの」と読ませます。

日本国代表者の言葉のチカラ。

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国権の最高機関である国会で、未曾有を「みぞうゆう」と言った人がいた。

頻繁を「はんざつ」と読んだ人がいた。

踏襲は「ふしゅう」だって。臭そう。

これがフーテンの寅さんならご愛嬌で済んだのだが。

残念なことに、これは日本国代表者の口から出た言葉であった。

しかも、いたって真面目な大間違いなのだから笑えない。

そして今、またまた国権の最高機関で「言葉」の物議を醸している日本国代表者がいる。

「そもそも」という言葉には「基本的に」という意味があるが、それは辞書にも書いてある。

堂々とそう言い放ったが、実際にはどこを探してもそんな辞書はなかった。

この方は、訂正云々を「訂正でんでん」と真面目な顔で言ってみたり、「私は立法府の長」としたり顔で言ってみたが、それを言うなら「行政府の長」でしょ、ということになり、議事録から抹消されたりしたことも記憶に新しい。

しかも、このところ閣僚の失言、放言、暴言が続き、ついに1人が辞めたばかり。そして、そのトップがこのざまだ。いや、トップがこのざまだから、部下は推して知るべしなのかもしれない。

ああ、ボクは悲しい。

日本の舵を取る人たちがこのような「言葉のチカラ」しか持ち得ないというのはヒジョーに悲しいことではないか。

これは、小学校の時に朝の自習時間によくやらされたように、単なる「国語のドリル」の勉強すればいいというレベルの話ではない。

彼らは基本的な国語力の欠如は言うまでもないが、もっと悪いのが「言葉への敬意」「言葉への恐れ」「言葉への注意」が全くないということだ。

厳密さのない、粗雑でぞんざいな言葉の使い方にこそ問題がある。

自分勝手な解釈、自分本位の言葉の定義、自己都合な言葉の用法は、やがて政治を誤らせることになる。

あの戦争の時の国家のプロパガンダがそうだったように。

それにしても「言葉」がおかしなことになっているね。

二世・三世議員というのは国語の試験免除の特権でもあるんですかね?

目の前で。

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すごい風が吹き、

目の前で、

干していた洗濯物が、

物干しごとぶっ倒れた。

それを潮に、

妻は洗濯物をしまう。

そして言う。

風のおかげでよく乾いたわ。

土の付いた洗濯物は一つだけ。

ボクのシャツ。

白いシャツ。

土汚れ。

ああ。

なんでやねん!!!

「合目的的」という引っ掛け言葉。

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一定の目的にかなっている様を「合目的的」という。

ボクは昔、部下が何かの報告に書いたこの言葉を、

「君、恥ずかしいよ。的がダブってるよ」と指摘して、逆に大恥をかいたことがある。

恥ずかしいのは言葉を知らないボクのほうだった。

その時の、部下は有名国立大学を出たインテリだった。

「ああ、こういう言葉があるの知りません?」

ああ、あの時の彼の勝ち誇ったような顔を思い出すと、今でも穴があったら入りたくなる。

コノヤロー、引っ掛けやがったな! と内心思ったりもした。

まあ、そんなつもりで言ったんじゃないかもしれないけど。。。

言葉を扱う商売が長くなったが、だからこそ、言葉を知らないことはヒジョーに恥ずかしいと思う気持ちが強くなった。

だからといって、あんまり神経を使い過ぎるのもどうかと思う。

言葉は「ゴムひも」のように、伸びたり縮んだりするものだ。

時代によっても、その時の状況によっても、語る相手によってもだ。

だけど、やはりそこには最低限のルールはある。

「合目的的」を誤字だと言い切ってしまうようではいけません。

早い話、言葉はどんな時代でも「合目的的」であらねばならない。

一定の目的に沿って、心の中にある無言の思いを形にして伝える。

それが言葉だ。

話は変わるが、ボクは最近サックスを始めた。

半年ぐらいやって、何とか、1曲ぐらいはつっかえつっかえだが吹けるようになってきた。

音楽の世界にも共通の「言葉」が存在することも分かった。

それは楽譜だ。

いろんな符号があって、それぞれに意味がある。

それは言ってみれば「音の言葉」であり、曲を奏でる上での基本ルールがそこにはギッシリ書かれている。

そのルールに沿って、今日は合目的的に奏でてこようと思っている。

何しろ今日は人生発のサックス演奏発表会なのだ。

つまりボクにとってのデビュー戦なのだ。

ようし! 行ってきます!!

(昨日は最後の練習を「太平山」に向かってやりました)↓

「ことごとくすべて」とゆーずいぶん欲張った言葉。

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「悉皆的(しっかいてき)」とゆー言葉がある。

文字どおり「ことごとくすべて」とゆー意味である。

「悉皆職人」とゆーのは、例えば呉服では「しみ抜き」「洗い張り」「染め直し」「刺繍直し」「仕立て直し」など、呉服に関するありとあらゆることをする職人であった。

物をとことん大事にする妻が、今、包丁の修理を出している新潟は三条の「ただふさ」さんは、まさに「包丁に関する悉皆職人」といっていいだろう。

あと、最近妻が目を丸くしているクリーニング界の「スーパー悉皆職人集団」は山形県酒田市の「うさちゃんクリーニング」だろう。

防虫・防カビ・はっ水・しみ抜き・・・クローニングにまつわるサービスならなんでもござれ、サービス品目のマシンガン攻撃なのであった。

それを説明するオバチャンもまた「受付部の悉皆職人」であった。

こーゆー職人さんたちは本当に素晴らしい!

一方、「悉皆的欲求人間」とゆーものがあるとすれば、ボクはその代表格だろう。

気に入ったものは「なんでもかんでもみ~んな欲しがる」性格なのだ。

思えば子どもの頃からそーだった。

「仮面ライダースナック」のカードも「ことごとくすべて」欲しくて、スナックだけ何百個も買ったものだ。

しかしほとんどスナックの味は覚えていない。

札幌冬季五輪の時にペプシコーラが「競技マーク」の王冠というものを出していたが、あれも「ことごとくすべて」の王冠を集めたくて、ゲップが出るほど、ペプシコーラやミリンダを飲みまくったものだった。

「ウルトラマンの怪獣カード」もそうだった。ああ、あれはどこに行ったのだろう?

「切手収集」に明け暮れていたときもあった。文芸シリーズが好きだった。正岡子規の切手は高くて買えなかった。

そんな性格は今もほとんど変わらない。

諦念とゆーものがまるでない。

最後に、ボクが大学時代に作っていたロックバンド『ハンプティ―ダンプティー』のデビュー曲を聴いてもらいたい。

その名も『欲求ロール』。

もちろん作詞も作曲もボクである。

若さに任せてなんでもかんでも欲しがっている。

ああ、やだやだ。。。

言葉と遺伝子。

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「言葉」とは「文字」という符号を用いた多層的な「情報」である。

「遺伝子」が「ATGC」という塩基配列の符号で書かれた圧縮「情報」の塊であるのと同じように。

前者を研究するのが「国語学者」で、後者は「生命科学者」だ。

ヒトに限らず生命を持つ生物は、「何かを伝えておきたい!」という強い思いがある。

自分が死んだ後に残さずにはおれないものがある。

その強い思いがリボ核酸を用いて、無限と思われる雑多な塩基配列をつくった。

その集合体の中に、さまざまな思いが「残したい情報」として圧縮され存在しているのだ。

「言葉」もしかり、伝えたい情報の集合体だが、遺伝子が全ての生命体において構成されているプリミティブなものであるのに対し、こちらはまさに「ヒト」にのみ与えられたものだ。

日本語に限らず、フランス語でもドイツ語でも英語でもポルトガル語でも、「言葉」の成り立ちそのものが、すでにいろんな歴史情報、環境情報を含んでいる。

一語一語に、こめられた積年の思いがある。特に日本語はそうだ。もっとも複雑で難解で多層的で情緒的な言語だ。

それを読み解くのは誰あろう、その言葉を生み出した「ヒト」である。

遺伝子がそうであるように、「言葉」もまた、読み解く人の読み解き方でその意味が全く変わってくる。

音としての「わ」は、津軽人にとっては「I」である。「わたし」である。同じく「な」は「あなた」である。

秋田県人にとっての「け」は「食え」「来い」「くれ」など、さまざまな動詞の命令形として機能する。

単に符号でしかない情報の羅列を、どう読み解くか?

それは、そこに込められた「伝えたい思い」や「メッセージ」を解釈する側の問題である。受け取る側の感性、知識、理解度、想像力である。

遺伝子の研究は進むが、どうもこの頃、「言葉の研究」が疎かになっているような気がする。

国語が丁寧に扱われていない気がする。

大学から文学部系の学部や教室が減りつつある。

これはゆゆしき問題だ。

科研費が充てられるのが、もっぱら生命科学分野なのはいかがなものか?

人の心を豊かにするために、人をシアワセにするために「言葉」は重要な意味を持つ。

それなのに、読み解くべき「言葉」への関心や理解・知識があまりにも低くなってしまった。

これはコンピュータではどうしても置き替えられない、「ヒト」にしかできない領域なのに。

いずれにしても、「遺伝子」の研究同様、「言葉」の持つ「メッセージ」をもっともっと正しく読み解くための学習が必要だと思う。

進めて言えば、遺伝子の読み解きも単に生命科学者だけの想像力だけでは限界があるように、言葉もまた文系理系の垣根を越え、また国境も越えて、多くの分野・地域の人たちによって研究されるべきものだ。

そこから、思いもよらなかった理解が得られたり、利便が創造されたり、平和が生まれるきっかけにもなるだろう。

そんな可能性を「言葉」は持っているとボクは思う。

だからこのブログを読みましょう!

とは言わないけれど、これがボクがずっと言いたかったこと。

おっと、今日は真面目に書いちゃった。。。

カマスの開きの干物はうまい。

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今朝、「カマスの開き」をあぶって食した。

妻がデパ地下で買ってきたものだが、これがなんと! サイコーに美味かった!

ボクたちは、いわゆる魚の「開きもの」「干物」が大好きで、その代表格はもちろん「アジ」であり「サバ」なのだが、

そこにもまた何かとこだわりがあり、「アジ」はやっぱり沼津でしょ、とか、サバは何と言っても「金華サバ」でしょ、とか、

まあ、そういうこだわりを持っている人もいるようだが、ボクたちはそうじゃない。

どちらかとゆーと、

そんな贅沢を言ったら罰が当たる、と常に思っているタイプである。

ボクたちは幸運なことに、石巻が妻の実家であるために、何かとおさかなには恵まれてきた。

秋田にいたらめったに食せないようなものをいただかせてもらう機会が多かった。いや今も多い。

しかし、今朝の「カマスの開き」だけはなかなかお目にかかれなかった。

この魚の主な出自が知多半島とか、富山とかだからかもしれない。

そんなわけで、もう何十年ぶりとなる「カマスの開き」あるいは「干物」をいただいたところで、ボクはフト「開く」という言葉の持つ意味を考えたわけだ。

また、「干す」という意味も同時に考えてみた。

「開く」「干す」、これはどちらもステキな言葉だ。

心を開く、胸襟を開く、開放的でいいではないか!

布団を干す、洗濯ものを干す、健康的でさわやかでいいはないか!

そうそう、「お開き」という言葉がありますね。

これは「終わる」「閉じる」では縁起が悪いので、その反対の「開く」を当てているわけ。

こういうのを「忌み言葉」といいます。

さらに、結婚式の披露宴などでは「お開き」に「お披楽喜」の漢字を当てたりする念の入れ用だ。

そんなわけで、今朝のカマスの開きの干物はうまかった。

そんだけのことを、こんなに長く書いてしまった。

ええ、今日はこれでお開き。。。