「合目的的」という引っ掛け言葉。

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一定の目的にかなっている様を「合目的的」という。

ボクは昔、部下が何かの報告に書いたこの言葉を、

「君、恥ずかしいよ。的がダブってるよ」と指摘して、逆に大恥をかいたことがある。

恥ずかしいのは言葉を知らないボクのほうだった。

その時の、部下は有名国立大学を出たインテリだった。

「ああ、こういう言葉があるの知りません?」

ああ、あの時の彼の勝ち誇ったような顔を思い出すと、今でも穴があったら入りたくなる。

コノヤロー、引っ掛けやがったな! と内心思ったりもした。

まあ、そんなつもりで言ったんじゃないかもしれないけど。。。

言葉を扱う商売が長くなったが、だからこそ、言葉を知らないことはヒジョーに恥ずかしいと思う気持ちが強くなった。

だからといって、あんまり神経を使い過ぎるのもどうかと思う。

言葉は「ゴムひも」のように、伸びたり縮んだりするものだ。

時代によっても、その時の状況によっても、語る相手によってもだ。

だけど、やはりそこには最低限のルールはある。

「合目的的」を誤字だと言い切ってしまうようではいけません。

早い話、言葉はどんな時代でも「合目的的」であらねばならない。

一定の目的に沿って、心の中にある無言の思いを形にして伝える。

それが言葉だ。

話は変わるが、ボクは最近サックスを始めた。

半年ぐらいやって、何とか、1曲ぐらいはつっかえつっかえだが吹けるようになってきた。

音楽の世界にも共通の「言葉」が存在することも分かった。

それは楽譜だ。

いろんな符号があって、それぞれに意味がある。

それは言ってみれば「音の言葉」であり、曲を奏でる上での基本ルールがそこにはギッシリ書かれている。

そのルールに沿って、今日は合目的的に奏でてこようと思っている。

何しろ今日は人生発のサックス演奏発表会なのだ。

つまりボクにとってのデビュー戦なのだ。

ようし! 行ってきます!!

(昨日は最後の練習を「太平山」に向かってやりました)↓

「ことごとくすべて」とゆーずいぶん欲張った言葉。

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「悉皆的(しっかいてき)」とゆー言葉がある。

文字どおり「ことごとくすべて」とゆー意味である。

「悉皆職人」とゆーのは、例えば呉服では「しみ抜き」「洗い張り」「染め直し」「刺繍直し」「仕立て直し」など、呉服に関するありとあらゆることをする職人であった。

物をとことん大事にする妻が、今、包丁の修理を出している新潟は三条の「ただふさ」さんは、まさに「包丁に関する悉皆職人」といっていいだろう。

あと、最近妻が目を丸くしているクリーニング界の「スーパー悉皆職人集団」は山形県酒田市の「うさちゃんクリーニング」だろう。

防虫・防カビ・はっ水・しみ抜き・・・クローニングにまつわるサービスならなんでもござれ、サービス品目のマシンガン攻撃なのであった。

それを説明するオバチャンもまた「受付部の悉皆職人」であった。

こーゆー職人さんたちは本当に素晴らしい!

一方、「悉皆的欲求人間」とゆーものがあるとすれば、ボクはその代表格だろう。

気に入ったものは「なんでもかんでもみ~んな欲しがる」性格なのだ。

思えば子どもの頃からそーだった。

「仮面ライダースナック」のカードも「ことごとくすべて」欲しくて、スナックだけ何百個も買ったものだ。

しかしほとんどスナックの味は覚えていない。

札幌冬季五輪の時にペプシコーラが「競技マーク」の王冠というものを出していたが、あれも「ことごとくすべて」の王冠を集めたくて、ゲップが出るほど、ペプシコーラやミリンダを飲みまくったものだった。

「ウルトラマンの怪獣カード」もそうだった。ああ、あれはどこに行ったのだろう?

「切手収集」に明け暮れていたときもあった。文芸シリーズが好きだった。正岡子規の切手は高くて買えなかった。

そんな性格は今もほとんど変わらない。

諦念とゆーものがまるでない。

最後に、ボクが大学時代に作っていたロックバンド『ハンプティ―ダンプティー』のデビュー曲を聴いてもらいたい。

その名も『欲求ロール』。

もちろん作詞も作曲もボクである。

若さに任せてなんでもかんでも欲しがっている。

ああ、やだやだ。。。

言葉と遺伝子。

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「言葉」とは「文字」という符号を用いた多層的な「情報」である。

「遺伝子」が「ATGC」という塩基配列の符号で書かれた圧縮「情報」の塊であるのと同じように。

前者を研究するのが「国語学者」で、後者は「生命科学者」だ。

ヒトに限らず生命を持つ生物は、「何かを伝えておきたい!」という強い思いがある。

自分が死んだ後に残さずにはおれないものがある。

その強い思いがリボ核酸を用いて、無限と思われる雑多な塩基配列をつくった。

その集合体の中に、さまざまな思いが「残したい情報」として圧縮され存在しているのだ。

「言葉」もしかり、伝えたい情報の集合体だが、遺伝子が全ての生命体において構成されているプリミティブなものであるのに対し、こちらはまさに「ヒト」にのみ与えられたものだ。

日本語に限らず、フランス語でもドイツ語でも英語でもポルトガル語でも、「言葉」の成り立ちそのものが、すでにいろんな歴史情報、環境情報を含んでいる。

一語一語に、こめられた積年の思いがある。特に日本語はそうだ。もっとも複雑で難解で多層的で情緒的な言語だ。

それを読み解くのは誰あろう、その言葉を生み出した「ヒト」である。

遺伝子がそうであるように、「言葉」もまた、読み解く人の読み解き方でその意味が全く変わってくる。

音としての「わ」は、津軽人にとっては「I」である。「わたし」である。同じく「な」は「あなた」である。

秋田県人にとっての「け」は「食え」「来い」「くれ」など、さまざまな動詞の命令形として機能する。

単に符号でしかない情報の羅列を、どう読み解くか?

それは、そこに込められた「伝えたい思い」や「メッセージ」を解釈する側の問題である。受け取る側の感性、知識、理解度、想像力である。

遺伝子の研究は進むが、どうもこの頃、「言葉の研究」が疎かになっているような気がする。

国語が丁寧に扱われていない気がする。

大学から文学部系の学部や教室が減りつつある。

これはゆゆしき問題だ。

科研費が充てられるのが、もっぱら生命科学分野なのはいかがなものか?

人の心を豊かにするために、人をシアワセにするために「言葉」は重要な意味を持つ。

それなのに、読み解くべき「言葉」への関心や理解・知識があまりにも低くなってしまった。

これはコンピュータではどうしても置き替えられない、「ヒト」にしかできない領域なのに。

いずれにしても、「遺伝子」の研究同様、「言葉」の持つ「メッセージ」をもっともっと正しく読み解くための学習が必要だと思う。

進めて言えば、遺伝子の読み解きも単に生命科学者だけの想像力だけでは限界があるように、言葉もまた文系理系の垣根を越え、また国境も越えて、多くの分野・地域の人たちによって研究されるべきものだ。

そこから、思いもよらなかった理解が得られたり、利便が創造されたり、平和が生まれるきっかけにもなるだろう。

そんな可能性を「言葉」は持っているとボクは思う。

だからこのブログを読みましょう!

とは言わないけれど、これがボクがずっと言いたかったこと。

おっと、今日は真面目に書いちゃった。。。

カマスの開きの干物はうまい。

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今朝、「カマスの開き」をあぶって食した。

妻がデパ地下で買ってきたものだが、これがなんと! サイコーに美味かった!

ボクたちは、いわゆる魚の「開きもの」「干物」が大好きで、その代表格はもちろん「アジ」であり「サバ」なのだが、

そこにもまた何かとこだわりがあり、「アジ」はやっぱり沼津でしょ、とか、サバは何と言っても「金華サバ」でしょ、とか、

まあ、そういうこだわりを持っている人もいるようだが、ボクたちはそうじゃない。

どちらかとゆーと、

そんな贅沢を言ったら罰が当たる、と常に思っているタイプである。

ボクたちは幸運なことに、石巻が妻の実家であるために、何かとおさかなには恵まれてきた。

秋田にいたらめったに食せないようなものをいただかせてもらう機会が多かった。いや今も多い。

しかし、今朝の「カマスの開き」だけはなかなかお目にかかれなかった。

この魚の主な出自が知多半島とか、富山とかだからかもしれない。

そんなわけで、もう何十年ぶりとなる「カマスの開き」あるいは「干物」をいただいたところで、ボクはフト「開く」という言葉の持つ意味を考えたわけだ。

また、「干す」という意味も同時に考えてみた。

「開く」「干す」、これはどちらもステキな言葉だ。

心を開く、胸襟を開く、開放的でいいではないか!

布団を干す、洗濯ものを干す、健康的でさわやかでいいはないか!

そうそう、「お開き」という言葉がありますね。

これは「終わる」「閉じる」では縁起が悪いので、その反対の「開く」を当てているわけ。

こういうのを「忌み言葉」といいます。

さらに、結婚式の披露宴などでは「お開き」に「お披楽喜」の漢字を当てたりする念の入れ用だ。

そんなわけで、今朝のカマスの開きの干物はうまかった。

そんだけのことを、こんなに長く書いてしまった。

ええ、今日はこれでお開き。。。

少しずつでも。

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今、窓の向こうに、チャッチボールをする少年が見えた。

正確に言うと、ボールを取り損ねて拾いに来た少年だが。

この子、大きくなったなあ。

ボクたちがここに来た2年前はもっと小さかったのにな。

そうか。

少年は大きくなるんだった。

先日、かつて住んでいた土地にお彼岸で行ったのだが、その頃、よく遊んでいた幼稚園と1年生の年子の女の子たちがいた。

ケイドロとかやったなあ。

その子たちは、お姉ちゃんは大学2年生、妹も今年大学に合格したらしい。

いやあ、早いなあ。

本当に早いもんだなあ。

成長が早いなあ。

かく言うボクは、成長が遅いなあ。

サックスもさっぱり上達しない。

とはいうものの、ここ半年とにかく練習だけはやっている。

そうすると不思議なもんで、やっぱり成長のスピードは鈍いけど、それなりには上手くなっている。

それだけは確かだ。

あの子たちのように画期的に成長はしないけど、確実に上達しているのだ。

理想の姿はあと5年先かな。

いやもっともっと先かもしれないけど、それでも、少しずつ頑張ろう。

そのためには、1日にちょっとでもいい、必ず練習することだ。

これはサックスに限ったことではない。

文章が上手くなるためにも同じことが言える。

少しずつでも、毎日書くこと。

それしかない。

言えないことが多いから。

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人はなぜ書くのだろう。

ボクもこのコーナーのブログだけで350回くらい、どうやら書いているようだ。

他にも『バツベンブログ~もう一回』はかれこれ100回かな?

『ことなひまめのオッペケペーですっとこどこいな日常』というブログにいたっては、なんと7年間で6,000回も書いている。

ボクはなぜ書くのだろう。

こんなにも狂ったように。

万年筆のPILOTのかつてのコピーにズバリその答えがあった。

「言えないことが多いから、人は書くのだと思う」

なるほど。

そーか、ボクは人に言えないことの塊なのかもしれない。

でも、よくよく考えてみると、妻とはそれこそ機関銃のように倍速コマ送りのように、ようしゃべる。

妻の場合は、ここでいうところの「人」に入っていないのかな?

あるいは、そうはいえ、日中はほとんど口を利かないで仕事をしている。

もっとしゃべりたいから書いているのかな?

それはそれとして、今の世の中はなかなか「言いたいこと」が言えないと思う。

なんというか「拡散」が怖い。

なんというか「炎上」が怖い。

なんというか「ソーシャルメディア」が怖い。

そんな時代になったもんだ。

「オレこのラーメンの味嫌いだな!」

と思っても、そんなことが言えない。

仮に言うとしたら、「A市のH面の通りにあるP点のRの大盛りとGザを食べたがまずかった」という具合。(知る人には全部分かってるだろうけど)

そんなわけで、イニシャルを多用して話すしかない。

昔はもっと言えましたよね。

どうしてこんなに言えなくなっちゃったんだろうね。

「物言わぬは腹ふくるるわざなり」と言うではないか。

もっと言いましょうよ、みんな。

このままではストレス社会がもっとストレス社会になってしまうよ。

憤死する人が続出するよ。

もちろん、プライバシーの配慮をするのは今も昔も当たり前だけど、もっと言いたいことは言いましょう。

ボクはもっともっと書いていきますよ。

自分の「精神衛生」ためにね。

佳境に入っていいもの。

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3月も佳境に入った。

ボクらの仕事が1年で一番忙しい時期も大詰め。

このような場合、3月も佳境に入った、とは言うが、「仕事が佳境に入った」という表現は適切だろうか?

毎日新聞の校閲部のツイッターにこんなことが書いてある。

【注意したい表現】
「佳境」⇒「佳境に入る」「佳境を迎える」は、最も興味深い、面白い場面になること。
「佳」は「よい」「美しい」意味だから、「救援活動が佳境を迎えた」など単なるヤマ場の意味では使わない。

う~ん。

そうすると、やっぱり仕事は「佳境」チームに入ってはいけないようだ。

どう考えても「最も興味深い」「面白いもの」ではないもの。

むしろ、あえて言えばその逆。

なので、仕事は「佳境」さんチームに入れられません。

ごめんね~!

せいぜい「大詰め」さんチームに入ってもらおう。

じゃあ、ボクのサックスの練習はどうだろうか?

初めてのクラスコンサートまで1カ月となったのだ。

これは、もちろん緊張はするものの、明らかに興味深く面白いものに違いないのだから、「佳境」さんチームに入れてあげたいものだ。

しかし、練習は厳しくつらい。唇から血がにじむ。

このバアイ、「佳境」さんチームに入れるべきか、「大詰め」さチームに入れるべきか?

う~ん。

考えてみると、「佳境」さんチームに入れてもいいものって、案外少ないのね。

もっと言えば、人生ってのもまた、山あり谷あり、なかなか「佳境」に入れないままいつしか終わってしまう。

「逆境」とか「苦節」とか「辛抱」とか、そんな時期ばっかりだものね。

特にこの時代はね。

鍋と交わす言葉、竹と交わす言葉。

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かつて料理の取材で老舗の割烹に出向いた時のこと。

作り方をいろいろ教えてもらっていた中で、その板前さんが言った言葉が印象に残っている。

それは「鍋と相談して」というものだった。

「どのくらいになったらお醤油を入れるんですか?」への答えがこれだった。

こちらとしては「おおむね15分くらいして」とか「くつくつ泡立ってきたら」とか、そういう具体的な答えを期待していた。

しかし、その質問に対する答えが「鍋と相談して」だったので、ライター的には大いに困ったものだ。

昨日、昔録っておいた『美の壺』という番組を見ていたら、眉毛が白くて長~い「竹かご職人」が出ていた。

宮崎県に住む「ひろしま」何がしさんという人で、百歳近くまで生きたが今は故人である。

その方が、ビデオの中でこういうことを言っていた。

「竹をだまして編んでいくのよ」

「竹をだます」というのは、こっちに曲げたい時には、いったんあっちに曲げて見せておいて、こっちに曲げる、みたいなことだった。

なるほど。うまいことをいったものだ。

さすがその道の一級の職人たちの言葉は深く、味わいがあるものだなあ、と思った。

彼らは鍋や竹を相手に会話をしているのだ。

彼らと心が通っていなければ、「鍋と相談して」も「竹をだまして」もゼッタイ出てこない言葉ではないだろうか。

そこには長年の相棒に対するあったかい慈しみがある。

ボクも、そんな会話ができるくらいに、何かに没頭して道を極めたいものだが、凡人にはなかなかそうはいかない。

相談したりだましたりするどころか、こっちの話に耳を貸してくれそうもない。

せいぜい妻とおばかな話をペチャクチャやっているのが関の山だ。

呼ぶ言葉。

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「呼ぶ言葉」を考えてみる。

何を呼ぶか?

まずは「人」を呼ぶ言葉。

妻のことを何と呼んでますか?

ボクは「妻」のことは「まあちゃん」と呼ぶ。

あるいは、省略して「まあ」と呼ぶ。

時々「真理さん」とか「代表」である。

人様に向かっては「妻」である。

妻だから妻である。

ここが人によっていろいろである。

妻と呼ぶのはどーも少数派のようだ。

妻のことを「うちのかみさん」と言うのはコロンボだったが、

「うちのかみさん」ということは「外にもかみさん」がいるのか?

と、お亡くなりになった人に突っ込んでも仕方がない。

夫のことを人様の前で「夫」と呼ぶ人も少ない。

フツーは「旦那」「うちの」「亭主」である。

子どもがいる人は、夫を「おとうさん」とか「パパ」と呼ぶが、

本当はそれは「子ども」に許された言葉であって、妻の「おとうさん」や「パパ」は別にいるはずだ。

そうそう、子どもから見たらそれは「おじいちゃん」に当たる人。

妻の「おとうさん」を「おじいちゃん」と呼んでもいいのは「子ども」だけで、妻の「おじいちゃん」は「子ども」の「ひいおじいちゃん」である。

話がやや面倒くさい方向に来たので、ここで軌道修正。

閑話休題。。。

ことほどさように、「人」を指して呼ぶ言葉は多用で難しい。

これはボクの実体験だが、「おまえ」と呼んでも別に問題なかった人を「あんた」と呼んでしまって激高させてしまったことがある。

その人の生まれた地域の違いや呼び方の習慣の違いが思わぬ事態を招くこともある。

人を呼ぶ言葉は、同時に「嵐」や「誤解」を呼ぶ言葉でもあるのだ。

最後に、「自分」を呼ぶ言葉について少し書く。

自分のことをボクは「ボク」と呼ぶが、一番由緒正しいのは「私」であろう。

男でも女でも「私」と自分を呼んでいれば問題はそう起きない。

ところが、いつも気になる「自分」呼び言葉があって、それは「あたい」である。

「おいら」も駄目である。

どーも、こう、何というか・・・なのである。

あと、「旦那ちゃん」や「子どもちゃん」も駄目である。

なんかこう、ざわざわしてしまう。

それが悪いとは言わないが、ボクはどーしてもその人の知性を疑ってしまうのだ。

これらの言葉は、ボクにとってそんな「憶測」を呼ぶ言葉である。

重なり合う言葉。

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「うごめく」という漢字が書けますか?

「蠢」

春に虫が2つ。

いかにも「うごめく感」がある。

このような、同じ漢字を2つ、ないし、3つ組み合わせて構成される漢字のことを理義字(りぎじ)という。

「木」が2つで「林」、3つで「森」。

「口」が3つで「品」、「日」が2つで「昌」、3つで「晶」。

「車」が3つで「轟(とどろ)く」。

「女」が3つで「姦(かしま)しい」。

「石」が3つで「磊(落)」・・・ちいさなことにこだわらない。

こんなふうにして、どんどん画数が多くなっていくのが理義字の特徴である。

それぞれ、漢字を重ね合すことで、気の利いた意味になって面白いが、

「口」に「耳」を3つで、「囁(ささや)く」なんていうのも振るっている。

そんなわけで、早く春の虫が、文字どおり蠢く時節にならんかなあ。。。

「首」を10個ぐらい重ねて伸ばして待ってるよ~!

※3月5日(2017年)は二十四節気の啓蟄。でも秋田の虫は眠そう。。。