日本食と日本語と日本人。

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ここんとこずっと海外では「日本食」がブームである。

「日本人」はどうか? 

あかん。

パッとせん。

日本人がブームだったのは「浮世絵」が人気だったころの欧州での話。

日本人でも、とりわけ「さむらい」「芸者」「相撲取り」が人気の的だった。

「日本語」はどうであろうか?

世界的に見て日本語はどうであろうか?

海外では全然ダメである。まるで人気がない。

日本語の華やかかりし時代もあった。

それは、言うまでもなく『大東亜共栄圏構想』下でのアジアの開発途上国における話。

戦争が終わり、日本語は母国でしか通用しない言語になった。

それでも少し前までは、中国人とかアジアン系の人々の間では少しは使われていたものだ。

彼らは日本の進んだ技術や学問、文化を学ぶ必要があったから。

留学生なども、その時代は必死に日本語を学ぼうとしていたような気がする。

でも、自国が富であふれてくると、もう「日本語」などには興味をなくしたようだ。

彼らは日本語を学ぶ必要がなくなり、日本での買い物を楽しむようになった。

ニポン ベンキョ モウイイ アルヨ

ニポン カイモノ ジャンジャン タノシアルネ!

そんなわけで、日本語はアジアン系にも人気がなくなった。

さらに、自国の人々からもぞんざいに扱われ始めた。

特に、日本語の良さである「丁寧な表現」「繊細な表現」がどんどん廃れてきている。

考えてみれば「日本語」も「日本食」もヒジョーによく似ている。

どちらもビミョーなニュアンスが出せるし、

そのビミョーなニュアンスを感じ取ることができるのが「日本人」なのだ。

日本食のビミョーさは「ダシ」に代表されるものだが、それを感じ取ることができる、舌の先にある「味らい」が最も発達しているのがわれら「日本人」である。

日本語とて同じで、「味らい」のような繊細な感覚を、われわれ日本人は言語中枢神経に宿しているのだ。

その証拠がFACE BOOKのボタンの種類に表れている。

「いいね!」という表現は、あちらでは「GOOD JOB!」だけであり、それだけで事が済んでしまう。

しかし、日本ではそうはいかなかったとみえて、「ひどいね」「超いいね」「かなしいね」など、いろんな感情を表現するアイコンを彼らは用意せざるを得なくなったではないか。

あんたらは何でもかんでも「グッジョーブ!」とか「エクセレント!」とか言ってりゃいいかもしれんが、日本人はそうはいかない。

言葉の使い方をちょっと間違えただけで、ものすごく悲しんだり、怒ったりしてしまう国民性なのだ。

そんなわけで、日本食の大ブームにあやかって、もっと「日本語」も注目されたいね! 

ほんとはいい言葉なのにね! って話でした。

もちろん「日本人」そのものもなんだけどね。

もっと誇りを持とうぜ、日本人!

※調べてみると、英語にもいろんなニュアンスがあるようだ。
Good, Nice, Excellent, Wonderful, Great, Gorgeous・・・。
すいません、英語音痴なもんで・・・・。

じゃによって選挙に行きます。

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妻がようやく仕事ひと段落。

朝6時から夜4時まで、日曜だというのに2人ともよー頑張りましたよ!

さあ、ビール飲む前にもう一仕事。

それは選挙。

今回は何やらきな臭いことになるかならんかを決める選挙らしい。

じゃによって、行ってきますよ。

さて、この「じゃによって」。

「したがって」とか、「ゆえに」「そういうことだから」というような意味である。

あんまり使わないけどね。

助動詞「じゃ」+助詞「に」+動詞「よる」+助詞「て」からできているそうで。

先に述べた事柄によって帰結することを述べる文を導くそうで。

最近、東大の人とかエバッタ人とかが、「じゃによって」「じゃによって」と言うのを聞いていると、「それがどーしたって?」「それがなんじゃい!」みたいな気になってしまうのは、ボクがストレスフルなのか。はたまた頭のいい人へのひがみなのか。

だけど、「したがって」でいいものを、何も今さら「助動詞「じゃ」+助詞「に」+動詞「よる」+助詞「て」からできている言葉」を使わんでもいいやろ! と思うわけ。

ジャミラなら好きだけど。

そんなわけで行ってきます。

じゃによって選挙へ。

追伸)昨日、妻と歌舞伎を見に行きました。

歌舞伎十八番の『鳴神』です。

大好きな演目なんですが、そこでも堕落する前のまだ偉い和尚さん時代の鳴神上人が「じゃによって」と言っておりました。

いやあ、オドロキ、オドロキ。

やっぱり「偉い人が使うセリフ」なんだな。

人をひれ伏せさせてあまりある言葉。

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いきなりすみませんが、今朝、ボクは「大きいほう」を催したので、

「今日はボクが1番ですね!」

と、妻に報告し立ち上がろうとすると、妻は人差し指を1本ワイパーのように動かして、

「チッ、チッ、チッ!」とやりながら、

「いいえ、私が1番、あなたは2番よ!」と、文明堂のコマーシャルみたいなセリフを吐きながら、いち早くトイレへ走っていった。

負けた。。。

と思った。

出遅れた。。。

と思った。

でも、彼女はすぐに戻ってきた。

「お待た~!」とか言いながら。。。

彼女が催したのは「小さいほう」だったのでよかったが、これが「大きいほう」だったらボクは大変なことになるとこだった。

まったく冷や汗もんだった。

さて、今日は「大きいほう」に代表される言葉について書いてみる。

大運動会とか。大感謝祭とか、大忘年会とか、の「大」ってなんだろう?

これには明らかに「誇張」が込められている。

そこら辺の「運動会」なんかより、もっともっとすごい運動会だもんね~!

あまねくある「感謝祭」なんかより、ずっとずっとビッグな感謝祭なんだもんね~だ!

ちまたにあふれている「忘年会」なんかより、ごっつ盛大な忘年会なんだもんね~!

そこには「なんかより」という言葉が示すように「蔑視」や「差別意識」が強烈に込められている。

「どうだまいったか!」という気持ち、

「この印籠が目に入らぬか!」が持つ「え~い、ひれ伏せ、この平民ども!」感が、そこには充満しているのだ。

それが「大」という言葉だ。

キング オブ 運動会!

キング オブ 感謝祭!

キング オブ 忘年会!

イエ~イ!!!

「大」はこのように、相手をひれ伏せさせたいときに用いられる。

「辞書・辞典界」で、最初に「大」を用いたのは平凡社だ。

「平凡社大百科事典」。小さいころ買ってもらいました。

ところが、世界にはもっとすごいものがあった。

「ブリタニカ国際大百科事典」である。

こちらには「大」はもちろんのこと、「国際」という、これまた「人をひれ伏せさせてあまりある言葉」が付いている。

この「国際」を冠したものに「国際観光ホテル」とか「〇〇国際大会」がある。いずれも「自分を大きく見せる効果」をいかんなく発揮している。

この近所には「国際タクシー」というタクシー会社まである。

「ロスまでお願いします!」

もし、そんな客が乗り込んで来たらどうするんだろうか?

いい顔で話す人たち。

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テレビを見ていた。

ビートルズの特集をやっていた。

日本公演から50年なのだとか。

その当時のことをインタビューしていた。

チケットが当たった人も、当たらなかった人もいた。

チケットが当たったのに、親や先生に「おまえは不良だ、ばかもん!」と言われて涙をのんだ中学生は今、すっかりおばちゃんになっていた。

「行かせなかったら死ぬ!」と言って親を脅迫した今おばはんもいた。

浪人中にたまたまもらったチケットを握って、下駄、学ランで福岡から上京したのは財津和夫だった。

そんなわけで、いろんな人たちが「ビートルズ日本公演」の思い出を語っていたのだが、どいつもこいつも「いい顔」でしゃべっていた。

いい顔で話す人たちは、今もいい夢を見ている証拠だ。

いい夢を見ているときは、みんないい顔になるんだな。

先日、あるステキなご夫婦とお酒を飲んだのだが、彼らのいい顔は「水泳」の話をする時だった。

妻に聞いたら、ボクの一番いい顔は「ご飯の炊き方」を話している時だったそうだ。

妻はいつも「おいしいもん」を語る時にその顔になる。

寝ててもその顔である。よだれまで垂らしている。

いい顔で話す人たちは、おしなべて皆、つまりは「シアワセ」なのだなあ。。。

『オッペケペーですっとこどっこい』という特に意味のない言葉。

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久方ぶりの投稿です。

ボクと妻は、言葉を扱う仕事を生業としつつ、常日頃ばかばかしい日々を送っている。

で、このブログとは別に、そういう日々のオバカぶりを、『ことなひまめのオッペケペーですっとこどっこいな日常2』というものに書いているのである。

こっちのほうは、もう6年以上も続いていて、パート1から合わせると合計5,000回以上も書いている。

くだらない話にご興味がございましたら、ぜひ読んでくださいませ。

さて、今日は、『オッペケペー』について触れてみたい。

「オッペケペー」は、明治時代の流行歌『オッペケペー節』が語源である。

大阪の落語家の桂文之助(二世曽呂利新左衛門)の門人の3代目桂藤兵衛(または2代目桂梅枝か?)が始めた。

その弟子の浮世亭〇〇(まるまる)が川上音二郎となり、1889年に作詞。

1891年2月以降、壮士芝居の役者として舞台に立ち、おおぎりに余興として歌った。

後鉢巻きに赤い陣羽織を着て、日の丸の軍扇をかざして歌った。

東京では、同年6月浅草中村座で歌った。

人気が出て、歌詞は十数種類もできている。(Wikiより引用)

<歌詞の一例>

権利幸福嫌ひな人に

自由湯をば飲ましたい

オッペケペーオッペケペッポーペッポーポー!

固い上下の角取れて

マンテルズボンに人力車

意気な束髪ボンネット

貴女に紳士のいでたちで

うはべの飾りは好いけれど

政治の思想が欠乏だ

天地の真理が分らない

心に自由の種を蒔け

オッペケペオッペケペッポーペッポーポー!

「自由民権運動」の歌とも言われる「オッペケペー節」。

なんと、この川上音二郎一座は1900年のパリ万博でも歌ったといううわさもある。

すごいなあ。

「オッペケペー」という言葉には意味はない。意味なしフレーズ。

しかし、この言葉が人々の耳に届いた時、意味はなくても、きっと人々に勇気や元気、少なくとも庶民を鼓舞するある種の「ノリ」を与えていたはずなのだ。

そういう言葉がボクは好きだ。意味はないが大いに意味がある言葉が。

一度耳に付いたら離れない、こうした「意味なしフレーズのチカラ」を侮るなかれ、である。

さて、この『オッペケペー節』。

レコード盤の音そのものは劣化したが、百年たった今聞いても全く劣化していない。

むしろ、この何とも言えない「ラップ調」が、今の音楽よりも粋で新鮮なくらいだ。

では、明治の流行歌『オッペケペー節』、日本人最古の歌声をYOUTUBEで聞いてくださいませ。

鳥肌もんですよ!

黒子になって読者を楽しませられるか?

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「訳者」という仕事がある。

この仕事は「黒子的」だと思っている。

自分は前面に出ないで、原作者の意図を読者に分かりやすく伝える。

そこに自分の解釈は要らない。

同じ「ヤクシャ」でも「役者」は花形で、「訳者」は黒子。

フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を、今2つの訳で読んでいる。

村上春樹訳と小川高義訳。

すると、大きな違いが浮かび上がってくる。

後者は完全なる黒子なのに対して、前者は黒子どころか役者(原作者)以上に訳者が全面に出ている気がする。

訳文が完全に「村上春樹」なのである。言い回しがいたずらに難解ではっきり言って「読みにくい」のである。

確かに文学的には素晴らしいのかもしれないが、これは自分の小説ではない。あなたは単なる「訳者」なのだ。

訳者は小川氏のように黒子に徹して、原作者の意を伝えることに心を砕き読者を楽しませてほしい、と思った。

村上さんの本はたくさん読んだし嫌いではないけれども、こと「訳者」という点ではボクは評価できなかった。

冒頭に書かれた「トーマス・パーク・ダンヴィリエ」の詩の訳文表現だけをとっても、両者の立ち位置の違いは明白だ。

*************************

もし彼女の心を動かせるのなら、金色の帽子だってかぶればいい。

もし高く跳べるのなら、彼女のために跳んだらいい。

「ああ、金色帽子で高く跳んでくれる人が好き。そういう人でないとだめ!」

と彼女に叫ばせるまで。(小川高義 訳)

*************************

もしそれが彼女を喜ばせるのであれば、黄金の帽子をかぶるがいい。

もし高く跳べるのであれば、彼女のために跳べばいい。

「愛しい人、黄金の帽子をかぶった、高く跳ぶ人、あなたを私のものにしなくては!」

と叫んでくれるまで。(村上春樹 訳)

*************************

「トーマス・パーク・ダンヴィリエ」というのは、フィッツジェラルド自身生み出した架空の詩人であり、彼のデビュー作『楽園のこちら側』の登場人物でもある。

したがって、この詩は『グレート・ギャツビー』の物語を暗示し、要約したものとして訳されていいものだ。

だからボクはあえて小川氏の訳に軍配を上げる。

ここから続く長い長い物語の登場人物が、生き生きと等身大に活写され、シンプルにスッと胸に迫ってくるのは圧倒的に小川氏の訳であって、村上氏の訳ではない。

正直、村上氏の訳は実に回りくどくて分かりずらい。

つまり、村上春樹は偉大な作家ではあっても、訳者としては本物ではないと思った。

少なくともボクと妻にはそう感じた。

いつも「読み聞かせ」をしているボクたちだが、こうやって訳の違いを楽しむ読み方もなかなか面白い。

次は、訳者がたくさんいる『源氏物語』の「読み比べ」にも挑戦したいものだ。

PS.小説だけでなく、映画『華麗なるギャツビー』も「レッドフォード主演版」と「デカプリオ主演版」を見比べるのも面白いだろう。

そう思ってまだ観たことなかったデカプリオのが、アマゾンから昨日届いた。

早く観たくて観たくて、もうワクワクしている。

「ずく」をずっくり考えてみた。

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昨日、もずく酢を食べた。

なので、今日は「ずく」について考えてみたい。

いろんな「ずく」がある。

長野県の方言で、「勇気」「気力」「根性」「やる気」みたいなことを「ずく」というらしい。

「ずくがある」、「ずくがない」などと使う。

ここ秋田でも「この、ずぐなし坊主め!」という表現はあり、ボクは母ちゃんによくそんな言葉で叱咤されたものである。

かなり前の「若者言葉」で、「ずく」は「調子ずく」ことを意味した。

調子ずく→チョズク→ずく。

さて、「ずく」とは何か?

ずく【尽く】は接尾語である。「尽くし」からきている。

「腕ずく」「力ずく」は、ただその手段だけで、それにものをいわせての意を表す。

「欲得ずく」は、ただそれだけの目的での意を表す。

「納得ずくで決めたこと」「相対(あいたい)ずく」「相談ずく」は、それをした上で、そうすることによって、の意を表す。

損得を考えて行動することを、「計算ずく」「勘定ずく」「金銭ずく」「そろばんずく」という。

英語では「with calculation」という。

ちなみに「そろばんずく」は「そろばん塾」が訛ったものでもある。

確か「とんねるず」が主演した映画にそんなのがあったような気がする。

さて、「ずく」をずっくり考えているボクだが、何だか気持ちが「ずくずく」してきた。

そう、心が「うずく」のだ。

なぜだ?

産気ずいたのだろうか?

色気ずいたのだろうか?

森の長老「みみずく」に聞いてみよう。

お薬の注意書きのなぞ。

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昨日、皮膚科に行ってきた。

頭が失神、いや頭に「湿疹」ができたからだ。

小さな塗り薬を処方してもらった。

IMGP1312ローション

薬局でもらった紙の「働き・注意」というところにこんなことが書かれている。

よく振ってからお使いください。

外用のみにお使いください。

目には使用しないでください。

化粧の下地やひげそり後には使用しないでください。

最後の行が気になった。

飲んだり、目に入れたりする人は、もしかしたらいるかもしれないが、これをそんな目的に使おうという人はいるだろうか?

そう思ってよく見ると、な~るほど。。。

そーゆーことか?

君の名前は『デルモゾールGローション』だったのね。

『ローション』って書いてあるもんね。

な~るほどね!

「ゲイ」とは何か?

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いろんな「ゲイ」がある。

ベロがよく回る「話芸」もあれば、火の輪をくぐる「曲芸」もある。

同じ「エンゲイ」でも庭木の「園芸」もあれば、歌舞音曲の「演芸」もある。

「一芸」に秀でた人もいれば、「一発芸」や「腹芸」が得意な人もいる。

「学芸会」もあれば「かくし芸大会」もある。

「芸能人」がこれをすると、「芸能人かくし芸大会」になって、「ゲイ」が2つも。

「芸人」「芸子さん」「芸者さん」「芸能人」「羽織芸者」というものもいる。

さてさて、「ゲイ」とは何か?

げい【芸】

1 学問や武術・伝統芸能などの、修練によって身につけた特別の技能・技術。技芸。「―は一生」
2 人前で演じる特別のわざ。演芸・曲芸など。「猿に―を仕込む」

「芸が細かい」
細部にまで注意が払われていて綿密である。することに念が入っている。

「芸が立つ」
一芸に達する。ひとかどの芸がある。

「芸がない」
1 遊芸のたしなみがない。
2 平凡でおもしろみがない。工夫がない。「人まねをするとは―・い話だ」

「芸が身を助けるほどの不仕合わせ」
生活にゆとりのあったころ道楽で身につけた芸を、生計のために役立てなければならないほど落ちぶれること。「芸は身を助ける」を皮肉にいったもの。

「芸は道によって賢し」
何事もその道の専門家がよく知っている。餅(もち)は餅屋。

「芸は身の仇」
習い覚えた芸のために、かえって身を誤ることがあるという意。

「芸は身を助ける」
一芸にすぐれていると、困窮したときにそれが生計の助けになる。

(以上「goo辞書」より引用)

自分に何か「ゲイ」と呼べるものがあるだろうか?

修練によって身につけた特別の技能だって?

カメムシを驚かさずに取る特別な技はある。

「椰子風うどん」といううどんをつくる特別な料理法ならお手のもの。

人前で演じる特別なわざだって?

人前でしゃべったことはある。

人前で歌ったこともある。

だけども、その程度で「ゲイ」と呼べるだろうか?

[「芸達者」などと自慢できるだろうか?

いやいや、ボクみたいなのを正真正銘の「多芸に無芸」というのだ。

その点、妻の日本舞踊は立派な「芸」だ。

何しろ年季が違う。

30年以上もやってるんだからね。

ボクもいつか「ゲイ」と呼べるものを身に付けたい!

それが「言葉を操る芸」ならステキだなんだがなあ。。。

差別用語を書き換えることによってもっと差別用語化してしまうのではないかと思われる「ふぐ」にまつわる話。

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こういう言葉に関する仕事をしていても、ついうっかり「差別用語」とされている言葉を使ってしまってドキドキすることがある。

そもそも「差別用語」とは何なのか?

差別用語とは、誰が誰のどんなところを差別していると、誰が考え、誰がタブーとして制定したものか?

差別される側が決めたものなのか、差別する側が決めたものなのか?

その辺りの政治的・歴史的なことはボクには皆目分からないが、とにかくそれは「人権」という問題と大きく関わっていることに違いない。

確かに「人は人を差別することで己のアイデンティティーを確かめ満たし喜ぶ生きもの」である。

古今東西そうである。

肌の色、顔の形、身体の造作や、所有財産、生まれた地域、服装の良し悪しばかりか流行の新旧まで、とにかくとにかく、人は人を差別することに躍起になっている。

そしてそれは、いつか大きなエネルギーとなって歴史的には「戦争」や「革命」を生んできたし、身近なところでは「いじめ」や「虐待」を生んでいる。

差別はいけない。

それはゼッタイにいけないことである。

そこは誤解なきように。

ボクが言いたいのは、差別用語を制定したり、単に置き換えたり、言い換えたり、書き換えただけで事が済むと思ってはいけない! とゆーことなのである。

そんな小手先だけで「差別社会」はなくならない。

そんなわけで、いつまでも「大上段に構えた話」はやめとこう。ボクらしくもない。

今日は、簡単に「ふぐ」という言葉について話したいと思う。

「ふぐ」には大きく分けて2つの意味がある。

「おいしくて大満足」のと「あんまり満足じゃない」ことを表すものである。

食べる方の「ふぐ」は堂々と使ってよろしいことになっている。

「ふぐちり」!

「ふぐ刺し」!

ああ、食いてえ!

ところがもう一つのほうは、『新聞用字用語集』によれば使ってはいけない語とされている。

これは「差別用語」であって、「身体障害(者)」、「体が不自由な人・状態」と書き換えなさい。

<注>文脈に応じて他の表現も工夫する。

となっているのだ。

しかし、ボクは思うのだ。

書き換えたほうがむしろ、より具体的に差別的になってしまうのではないだろうか?

どっちの何がどう、差別的で、どっちの何がどう差別的でないのか?

そこがまったく分からない。

こういう、立場によって受け止め方が異なる言葉というものが制定されてから久しいけれども、ボクはどうも、かえってそういう「後々使っちゃいけないと制定された言葉」のほうがむしろ差別的に思えて仕方がない。

制定されたこと自体がすでに差別的な気がしてならない。

誰が、どんな議論を経て制定したものか分からないけれども。。。

昔の小津さんの白黒の映画なんかを観ていると、今は使えない「今は差別的とされる言葉」がたくさん出てくる。

しかし、これらの言葉は差別的どころか、かえって健康的で明るくて平和的だ。

これでいいではないか。