始球式はなぜかわいこちゃんでなければならないのか?

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今日もワンプッシュ、よろしくお願いします!

始球式が花盛りである。

いよいよ野球が始まるね。(そう書いたものの、実はもうとっくに始まっていたらしい。失敬失敬。。。)

それにしても、いつからどーして、野球の始球式は水着を着た女の子や、短パンを履いた女の子が務めるようになったのだろうか?

マウンド上で、大観衆のヤラシイ視線にさらされながら、あの子たちは一体何を思っているのだろうか?

いや、それよりも何よりも、あの小高いマウンドの上に、あの子たちを立たせ、放らせ、それを息をのんで見つめる大衆の心理はいかがなものか?

あの儀式が終わった後に、本物のピッチャーにボールを渡す場面がありますよね?

あの時のボールを渡された「エースピッチャー」の「隠しデレ顔」は笑える。

でも、まあエースピッチャーはみんな若いから、トーゼン鼻息も荒かろうと思う。それは勘弁してあげよう。

ただ、普段は公明正大、沈着冷静、四角四面を装っている「アンパイヤーたち」が見せる「エヘラオヤジ」の「隠しエヘラ笑い」はどーであろうか?

あれはちょっといただけないね。

それはそーと、始球式のマウンドに女の子を立たせる儀式がなぜこうも盛り上がるのだろうか?

それには理由がある。

立ってはいけない場所に、立ってはいけない人が立つからである。

その結果、見ている人は大いに盛り上がるのである。

中には、予期せず、自らの「自ら」が立ち上がってしまう御仁も出てくるのである。

じゃあ、あの場に誰が立ってもいいかというとそーはいかない。

意外性という意味では、羽生さんをマウンド上に座らせて将棋を打たせるのも面白い。

しかし、それでは駄目なのだ。 

あの役は女性でなければならんのだ。

しかも、「レディー」には「ピチピチ」という4文字が必須だ。

かつてロンドンオリンピックの開会式のスタジアムに、英国女王陛下さまがヘリから降り立ったことがあったが、あのレディーでは駄目なのだ。

この心理について考えてみよう。

ちょっと小高いところに、若くてピチピチした女の子を、露出度高い格好で立たせ、自分たちはそれを取り巻く360度パノラマの位置に陣取って、デレデレなめまわすように見る、見る、見る。

そーゆー、いわば「スケベでどこにでもいるオヤジ」の深層心理が、あのイベントを、かくも盛り上げ、かくも繁栄させているのである。

そのヤラシイ観客のワンノブゼムであるボクにも、そのことはよー分かる。

この心理は、「ジュリアナ東京におけるお立ち台」や「高級しゃぶしゃぶ店におけるエリート官僚どものノーパンシャブシャブ接待」や「ストリップ劇場における本番まな板ショー」などの中にも垣間見ることができる。

ボクには、そのヤラシイ心理の延長線上にさらに大きな夢があるのだが、ええい、この際言ってしまおう。

国技館の土俵の上で「金粉レディー」による「金粉相撲」が見てみたいのだ!

金粉力士たちの肌と肌のぶつかり合い!

飛び散る金粉! また金粉!

仕切る行司「木村庄之助」のデレ顔!

どうですか、あなた?

賛同してくれますね?

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