言葉と遺伝子。

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「言葉」とは「文字」という符号を用いた多層的な「情報」である。

「遺伝子」が「ATGC」という塩基配列の符号で書かれた圧縮「情報」の塊であるのと同じように。

前者を研究するのが「国語学者」で、後者は「生命科学者」だ。

ヒトに限らず生命を持つ生物は、「何かを伝えておきたい!」という強い思いがある。

自分が死んだ後に残さずにはおれないものがある。

その強い思いがリボ核酸を用いて、無限と思われる雑多な塩基配列をつくった。

その集合体の中に、さまざまな思いが「残したい情報」として圧縮され存在しているのだ。

「言葉」もしかり、伝えたい情報の集合体だが、遺伝子が全ての生命体において構成されているプリミティブなものであるのに対し、こちらはまさに「ヒト」にのみ与えられたものだ。

日本語に限らず、フランス語でもドイツ語でも英語でもポルトガル語でも、「言葉」の成り立ちそのものが、すでにいろんな歴史情報、環境情報を含んでいる。

一語一語に、こめられた積年の思いがある。特に日本語はそうだ。もっとも複雑で難解で多層的で情緒的な言語だ。

それを読み解くのは誰あろう、その言葉を生み出した「ヒト」である。

遺伝子がそうであるように、「言葉」もまた、読み解く人の読み解き方でその意味が全く変わってくる。

音としての「わ」は、津軽人にとっては「I」である。「わたし」である。同じく「な」は「あなた」である。

秋田県人にとっての「け」は「食え」「来い」「くれ」など、さまざまな動詞の命令形として機能する。

単に符号でしかない情報の羅列を、どう読み解くか?

それは、そこに込められた「伝えたい思い」や「メッセージ」を解釈する側の問題である。受け取る側の感性、知識、理解度、想像力である。

遺伝子の研究は進むが、どうもこの頃、「言葉の研究」が疎かになっているような気がする。

国語が丁寧に扱われていない気がする。

大学から文学部系の学部や教室が減りつつある。

これはゆゆしき問題だ。

科研費が充てられるのが、もっぱら生命科学分野なのはいかがなものか?

人の心を豊かにするために、人をシアワセにするために「言葉」は重要な意味を持つ。

それなのに、読み解くべき「言葉」への関心や理解・知識があまりにも低くなってしまった。

これはコンピュータではどうしても置き替えられない、「ヒト」にしかできない領域なのに。

いずれにしても、「遺伝子」の研究同様、「言葉」の持つ「メッセージ」をもっともっと正しく読み解くための学習が必要だと思う。

進めて言えば、遺伝子の読み解きも単に生命科学者だけの想像力だけでは限界があるように、言葉もまた文系理系の垣根を越え、また国境も越えて、多くの分野・地域の人たちによって研究されるべきものだ。

そこから、思いもよらなかった理解が得られたり、利便が創造されたり、平和が生まれるきっかけにもなるだろう。

そんな可能性を「言葉」は持っているとボクは思う。

だからこのブログを読みましょう!

とは言わないけれど、これがボクがずっと言いたかったこと。

おっと、今日は真面目に書いちゃった。。。

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