拙宅の拙庭に拙松がある。
その松は今、蝉のファイナルがクライマックスを迎えている。
蝉にとって、交尾は一生の「メインイベント」なのだが、おのれの生態名が「蝉」なので惜しい。
残念無念であろうが、ここは「蝉ファイナル」と呼ばせてもらう。
拙宅の拙庭と、拙者たちの拙寝室は近い。
なにしろ庭といっても「広さ方丈」である。
寝室といっても、こちらも「広さ方丈」である。
鴨長明さんの影響でそうしたわけではない。
予算上の都合である。
そんなわけで、寝ている耳元で、蝉がファイナルをしている臨場感が満喫できる。
蝉は地上での時間が短い。
ウルトラマンは地球上で3分しか生きられないのと似ている。
かれらはもう少し長いが、それでも1週間である。
1週間の勝負に勝てなければ子孫を残せない。
子孫とは何か?
もちろん蝉である。
その蝉がまた蝉ファイナルをやって蝉を生むのである。
彼らは永遠にメインイベントとしての蝉ファイナルを行っているのである。
何だか決勝戦のない準決勝のようである。
大トリのいない紅白のようである。
前座だけのライブのようである。
前菜だけのフルコース。
序文だけの論文。
ポケモンのいないポケモンGO。
玄関だけの家。
OSのないパソコン。
ゴジラのいないゴジラ映画。
帝釈天のない葛飾柴又。
ところで、蝉。
いや、SEMI(セミ)という言葉。
半分、半ば、やや、など、中途半端な意を表す。
「セミプロ」「セミクラシック」「セミダブル」などなど。
ならば、「せみしぐれ」は「ややしぐれ」という意味にも取れる。
そんなことを言ったら藤沢周平さんに怒られるか。
さて、拙宅の拙庭に拙松に泊まっている夥しい数の蝉。
こちらはSEMIどころか、夜中でもなんでも、やる気「全開」である。
完全燃焼している感がある。
交尾にうつつを抜かしている。
いやひと夏の享楽にいそしんでいる。
いやいや、そんな甘っちょろいもんじゃない。
蝉DNAに操られるがまま、蝉生涯の全てを懸けて全力投球しているといったほうがいいだろう。
やたらうるさくて、こっちがろくに寝てられないのだが、まあしょうがない。
あと数日の辛抱だ。
そうそう、今思い出したのだが、ボクが一番好きな「セミ」言葉があった。
蝉ヌード、いや「セミヌード」。
オールヌードより全然いいね。
おっと、どーでもいい余談でした。