昔、昔、僕が子どもの頃、卵は家で飼っているニワトリが産んだものを食べていた。
コッコッコッココケコッコ~
時々、いやかなりの頻度で目玉の2つある卵に遭遇した。
その卵は何となく割る前からそうかもしれないと分かったものだ。
寿老人だか福禄寿だかの顔みたいに少し細長い形をしていたから。
二つ黄身があったときの喜びは計り知れなかった。
ものすごく得をしたような気になった。
四つ葉のクローバーを見つけたときもそうだった。
未来が幸福の金粉で彩られる気がした。
四つ葉のクローバーはどうか知らないが、2つ黄身のある卵は最近とんとご無沙汰だ。
もう何十年と見ていない。
きっとセンサーか何かでそういう奇形は出荷前に排除されるのだろう。
画一化、均一化である。
でも、それは排除されるべきものなのだろうか。
子どもの頃、排除どころかうれしくて小躍りしていたのに、どうしてみんなと一緒じゃないと駄目になってしまったのだろう。
いつから卵の黄身は1個であるべきと決まったのだろうか。
そういった考えが現代社会をよく映していると思う。
ダイバーシティとか、インクルージョンの必要性が叫ばれているが、
結局その根っこはそういった画一主義・純血主義・排他主義にあるのではないだろうか。
実は、今朝、こんな卵がわが家の食卓に幸運を運んできた。
妻は何十年ぶりに見たとうれしそうだった。あんまりうれしそうだったので、卵好きの彼女に当たりをあげた。
偶然、付け合わせが魚肉ソーセージだったのでそれと並べる。
これがほんとの「二卵性双生児」というわけ。
そうそう、短歌の下の句。
黄身2つ葉っぱが4枚すごいなあ
ダイバーシティーの原点ここに