美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。
美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい。
(オードリー・ヘップバーン)
今年もこのブログをよろしくお願いいたします。ときどきでも見てくださいね。
さて、冒頭の言葉。
オードリーはきっと、いい言葉を使い、他人の美点を探して生きていたのだなあ。
だって、あんなにキュートな唇と美しい瞳を持っていたのだから。。。
しかし、美しい言葉を使うことも、他人の美点を探すこともなかなか難しい。
そもそも「美しい言葉」ってなんだろう?
今、いやずっと前からだが、日本語は駄目になったなあと思う。
いろんな現代語があっていい。若者言葉もいいさ。
だけどね、それはそれでいいけれどもだ!
国語学者がこぞって、「言葉は変わりものだ。時代とともに変わっていく。その時代に生み出されたそういう言葉こそもっと使うべきなのだ」
みたいなことを語っていることには、正直うなずけなかった。どうしたものかと思っていた。
時代に媚を売り過ぎだと思った。
新しい言葉も別にいいけれども、一体「古き美しき言葉」たちは誰が教え、誰がしゃべるの? 誰が聞いてくれるんですか?
言葉は意思を伝えるコミュニケーションツールである。
しかし、それだけだろうか?
日本文化に詳しいわが妻は今、「女房言葉」を一生懸命調べている。
宮中の女性が使った雅言葉のこと。
語頭に「お」、語尾「もじ」が付く言葉が多い。
屁のことは「鳴る」、それに「お」を付けて「おなら」などはその代表格。
「お」と「中」で「おなか」もそう。
ボクが大好きな「おでん」は『田楽』に「お」が付いた女房言葉。
おしゃくする、に「もじ」が付いて「しゃもじ」である。
一方、雅言葉のなかには「忌み言葉」というものもある。
縁起が悪いからと、「切る」を、逆に「生やす」という。
この辺の地方では、確かに包丁で何かを切ることを「はやす」と言う。
秋田は北前船の影響で、こうした雅言葉がいまだに残っている。
そういう言葉は美しいと思う。
そういう言葉を使っていた古(いにしえ)の時代の人々の心映えにまで思いをはせ、なんとなくはんなりした気持ちになれる。
それだけでも、心が美しくなる。
おのずと唇も赤く色づくというもの。。。
今年はそんな「美しい言葉」を探す冒険をしよう!
ときどき脱線もするでしょうが、どうかお付き合いください。