ジョシと言っても「女子」ではなく、今日は「助詞」のチカラを考えたい。
「女子」のチカラはもう、考えんとも、ええ、嫌と言うほど知り尽くしてますから。。。
さっきも寝起きに、妻にヘッドロックかけられましたさかい。
仕事柄、人の書いた文章を一字一句凝視してリライトすることが多いのですが、そこで気付くのは、いわゆる「助詞の間違い」だ。結構多い。
私は今日二十歳になりました。
これが、こんなふうになっていたら、明らかに間違いだろう。
私を今日二十歳になりました。
私の今日二十歳になりました。
しかし、この場合はどうだろう?
私も今日二十歳になりました。
私が今日二十歳になりました。
これは間違いと言えるだろうか?
言えませんね。
さて、では、助詞が「は」「も」「が」の場合、文章のニュアンスはどう変わるでしょう?
言葉のセンスのある人は、実はこの「助詞」の使い方がうまいのだ。
「今日二十歳になった」という事実は同じでも、主語「私」の心情が、この助詞によって微妙に違ってくるのにお気付きですか?
もっとも「強い」意思を感じるのは「が」であり、もっとも「従属的」な感じは「も」だろう。
たった1文字の助詞の違いによって、主語たる「私」の意思がまるで違ってくるのだ。
だから、助詞はないがしろにできない。
小説であれば、それが登場人物の輪郭を明確に作っていく。
助詞の間違いはもってのほかだが、どの助詞を選ぶかのセンスが大事だと思う。
これは助詞に限らず、すべてそういう「言葉選びのセンス」を磨くことが、いい文章を書くための秘訣なのだ。
家政婦のミタ。
家政婦はみた。
キヨシのズンドコ。
キヨシはズンドコ。(ドンゾコ?)