こういう言葉に関する仕事をしていても、ついうっかり「差別用語」とされている言葉を使ってしまってドキドキすることがある。
そもそも「差別用語」とは何なのか?
差別用語とは、誰が誰のどんなところを差別していると、誰が考え、誰がタブーとして制定したものか?
差別される側が決めたものなのか、差別する側が決めたものなのか?
その辺りの政治的・歴史的なことはボクには皆目分からないが、とにかくそれは「人権」という問題と大きく関わっていることに違いない。
確かに「人は人を差別することで己のアイデンティティーを確かめ満たし喜ぶ生きもの」である。
古今東西そうである。
肌の色、顔の形、身体の造作や、所有財産、生まれた地域、服装の良し悪しばかりか流行の新旧まで、とにかくとにかく、人は人を差別することに躍起になっている。
そしてそれは、いつか大きなエネルギーとなって歴史的には「戦争」や「革命」を生んできたし、身近なところでは「いじめ」や「虐待」を生んでいる。
差別はいけない。
それはゼッタイにいけないことである。
そこは誤解なきように。
ボクが言いたいのは、差別用語を制定したり、単に置き換えたり、言い換えたり、書き換えただけで事が済むと思ってはいけない! とゆーことなのである。
そんな小手先だけで「差別社会」はなくならない。
そんなわけで、いつまでも「大上段に構えた話」はやめとこう。ボクらしくもない。
今日は、簡単に「ふぐ」という言葉について話したいと思う。
「ふぐ」には大きく分けて2つの意味がある。
「おいしくて大満足」のと「あんまり満足じゃない」ことを表すものである。
食べる方の「ふぐ」は堂々と使ってよろしいことになっている。
「ふぐちり」!
「ふぐ刺し」!
ああ、食いてえ!
ところがもう一つのほうは、『新聞用字用語集』によれば使ってはいけない語とされている。
これは「差別用語」であって、「身体障害(者)」、「体が不自由な人・状態」と書き換えなさい。
<注>文脈に応じて他の表現も工夫する。
となっているのだ。
しかし、ボクは思うのだ。
書き換えたほうがむしろ、より具体的に差別的になってしまうのではないだろうか?
どっちの何がどう、差別的で、どっちの何がどう差別的でないのか?
そこがまったく分からない。
こういう、立場によって受け止め方が異なる言葉というものが制定されてから久しいけれども、ボクはどうも、かえってそういう「後々使っちゃいけないと制定された言葉」のほうがむしろ差別的に思えて仕方がない。
制定されたこと自体がすでに差別的な気がしてならない。
誰が、どんな議論を経て制定したものか分からないけれども。。。
昔の小津さんの白黒の映画なんかを観ていると、今は使えない「今は差別的とされる言葉」がたくさん出てくる。
しかし、これらの言葉は差別的どころか、かえって健康的で明るくて平和的だ。
これでいいではないか。