「訳者」という仕事がある。
この仕事は「黒子的」だと思っている。
自分は前面に出ないで、原作者の意図を読者に分かりやすく伝える。
そこに自分の解釈は要らない。
同じ「ヤクシャ」でも「役者」は花形で、「訳者」は黒子。
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を、今2つの訳で読んでいる。
村上春樹訳と小川高義訳。
すると、大きな違いが浮かび上がってくる。
後者は完全なる黒子なのに対して、前者は黒子どころか役者(原作者)以上に訳者が全面に出ている気がする。
訳文が完全に「村上春樹」なのである。言い回しがいたずらに難解ではっきり言って「読みにくい」のである。
確かに文学的には素晴らしいのかもしれないが、これは自分の小説ではない。あなたは単なる「訳者」なのだ。
訳者は小川氏のように黒子に徹して、原作者の意を伝えることに心を砕き読者を楽しませてほしい、と思った。
村上さんの本はたくさん読んだし嫌いではないけれども、こと「訳者」という点ではボクは評価できなかった。
冒頭に書かれた「トーマス・パーク・ダンヴィリエ」の詩の訳文表現だけをとっても、両者の立ち位置の違いは明白だ。
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もし彼女の心を動かせるのなら、金色の帽子だってかぶればいい。
もし高く跳べるのなら、彼女のために跳んだらいい。
「ああ、金色帽子で高く跳んでくれる人が好き。そういう人でないとだめ!」
と彼女に叫ばせるまで。(小川高義 訳)
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もしそれが彼女を喜ばせるのであれば、黄金の帽子をかぶるがいい。
もし高く跳べるのであれば、彼女のために跳べばいい。
「愛しい人、黄金の帽子をかぶった、高く跳ぶ人、あなたを私のものにしなくては!」
と叫んでくれるまで。(村上春樹 訳)
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「トーマス・パーク・ダンヴィリエ」というのは、フィッツジェラルド自身生み出した架空の詩人であり、彼のデビュー作『楽園のこちら側』の登場人物でもある。
したがって、この詩は『グレート・ギャツビー』の物語を暗示し、要約したものとして訳されていいものだ。
だからボクはあえて小川氏の訳に軍配を上げる。
ここから続く長い長い物語の登場人物が、生き生きと等身大に活写され、シンプルにスッと胸に迫ってくるのは圧倒的に小川氏の訳であって、村上氏の訳ではない。
正直、村上氏の訳は実に回りくどくて分かりずらい。
つまり、村上春樹は偉大な作家ではあっても、訳者としては本物ではないと思った。
少なくともボクと妻にはそう感じた。
いつも「読み聞かせ」をしているボクたちだが、こうやって訳の違いを楽しむ読み方もなかなか面白い。
次は、訳者がたくさんいる『源氏物語』の「読み比べ」にも挑戦したいものだ。
PS.小説だけでなく、映画『華麗なるギャツビー』も「レッドフォード主演版」と「デカプリオ主演版」を見比べるのも面白いだろう。
そう思ってまだ観たことなかったデカプリオのが、アマゾンから昨日届いた。
早く観たくて観たくて、もうワクワクしている。
すみません、気になったもので・・・
ああ、金色防止で → ああ、金色帽子で
だと思うのですが・・・。
ご指摘ありがとうございました。
感謝して訂正させていただきます。
言葉を扱う仕事をしている人間としてお恥ずかしい限りです。
今後ともご指導のほど、よろしくお願いいたします。
はじめまして。小川高義さんのことをググっている途中に、こちらのページに辿りつきました。僭越ながら、ちょこっとコメントを残して参ります。
小川氏の翻訳は一冊しか読んでいないのですが、心が打ち震えるほど日本語の文章が上手い人だと感じました。
この詩の訳は、村上氏のほうが直訳に近いと思います。ただ、英語の感覚と日本語の表現には、かなりの隔たり(というか、どうしても訳しきれない言霊の部分)があって、直訳すると、言葉や文章のもつ『軽妙さ』や『可笑しみ』『強さ』『時代性』その他もろもろの印象が、表しきれなくなってしまう。翻訳には必ずどこかしらに意訳が加味されるもの、と認識していますが、その振れ幅を決定するのは、翻訳者のセンスと能力にかかっているんですよね。(あとたぶん、編集者にもよるかも)
私も小川氏に一票。とくに I must have you ! の部分、こうきたかー。という感じがします。この方は『言霊』を訳し、さらに巧妙かつ美しい日本語を表現できる人。という気がしています。
コメントありがとうございます!
小川氏を、「『言霊』を訳し、さらに巧妙かつ美しい日本語を表現できる人」と表現されたことに深く感服いたしました。「役者評」は世の中にごまんとありますが、「訳者評」はあまり見ません。そういう分野の研究も面白いかもしれませんね。