いつも「日本語の表記は難しい」と思って仕事をしている。
どーしてそのバアイは「一つ」で、このバアイは「1つ」なのか?
どーしてその時は「とき」で、このバアイは「時」なのか?
校正の仕事は、このような「悩み」を宿命的に抱えながら、それでも「それはこーだからこっちなのだ!」と自他ともに納得させなければならない。
その「よりどころ」は『新聞用字用語集』(13版)だったり文部科学省の『改定常用漢字表』などなのだが、これがなかなか厄介だ。
ちなみに「よりどころ」は「拠り所」なのか「寄り所」なのか「依り所」なのか「因り所」なのか?
正解は「よろどころ」である。
なぜだ?
と言われれば、こう言うしかない。
『新聞用字用語集』(13版)にそう書いてあります、と。
そんなわけで、それでなくても日本語表記は難しいのだが、
校正や校閲という仕事は、日本語のような表記の難しい文字文化の上にこそ成り立ってもいるわけだ。
日本語が難しいからこそおまんまが食える、ということ。
しかし、そんなボクらの職業を脅かすことが起こっている。
それは「聞く本」オーディオブックの台頭だ。
アマゾンでは「オーディブル」といって、文芸書から落語まで、いつでもどこでも歩きながらでも読める、いや「聞ける」のだ。
そーなってくると、どーなるか?
人は活字そのものを読まなくなる。今まで以上に読まなくなる。読む必要がなくなる。聞けばいいのだから。
そーなってくると、どーなるか?
文字が要らなくなるとは言わないが、少なくとも今ボクらを悩ましくしている「表記」というものが必要なくなる。
文部科学省の『常用漢字』がやがてなくなり、そのうち日本語の表記は全て「ひらがな」でいい決まりになる。
そーなると、どーなるか?
ワシラは廃業する。
が~ん!
そんな暗い気持ちになっていると、妻が横でこう言った。
「本を読めない人は人の心も読めない」
なるほど。
何だか、訳もなく納得するボクであった。
みんな、本読もうね!
そうそう、このコーナーの表記は「日常のしかつめらしい表記ルール」に対して、
ささやかな反抗を企てるべく、あえて『ふにゃふにゃぐーたら表記』で書いています。
あしからず。