かつて料理の取材で老舗の割烹に出向いた時のこと。
作り方をいろいろ教えてもらっていた中で、その板前さんが言った言葉が印象に残っている。
それは「鍋と相談して」というものだった。
「どのくらいになったらお醤油を入れるんですか?」への答えがこれだった。
こちらとしては「おおむね15分くらいして」とか「くつくつ泡立ってきたら」とか、そういう具体的な答えを期待していた。
しかし、その質問に対する答えが「鍋と相談して」だったので、ライター的には大いに困ったものだ。
昨日、昔録っておいた『美の壺』という番組を見ていたら、眉毛が白くて長~い「竹かご職人」が出ていた。
宮崎県に住む「ひろしま」何がしさんという人で、百歳近くまで生きたが今は故人である。
その方が、ビデオの中でこういうことを言っていた。
「竹をだまして編んでいくのよ」。
「竹をだます」というのは、こっちに曲げたい時には、いったんあっちに曲げて見せておいて、こっちに曲げる、みたいなことだった。
なるほど。うまいことをいったものだ。
さすがその道の一級の職人たちの言葉は深く、味わいがあるものだなあ、と思った。
彼らは鍋や竹を相手に会話をしているのだ。
彼らと心が通っていなければ、「鍋と相談して」も「竹をだまして」もゼッタイ出てこない言葉ではないだろうか。
そこには長年の相棒に対するあったかい慈しみがある。
ボクも、そんな会話ができるくらいに、何かに没頭して道を極めたいものだが、凡人にはなかなかそうはいかない。
相談したりだましたりするどころか、こっちの話に耳を貸してくれそうもない。
せいぜい妻とおばかな話をペチャクチャやっているのが関の山だ。