先日録画していた『しあわせのパン』を観たが、あれはどうも原田知世さんのために作られた、かつての『時をかける少女』ばりの映画だと思った。
うまく言えないが、彼女あっての、彼女にささげられた、彼女を引き立てるための映画であった。
たまらなく何度も「ブレンディーな気分」になる映画であった。
そういえば、『時をかける少女』のことを『ときかけ』と、まるで『やまかけ』みたいに言う人がいるが(誰あろう、それはアレを撮った監督でもあるのだが)、いまどき『ときかけ』と聞くと恥ずかしくなるのはなぜだろう。
さて、ボクはあの映画で思ったことある。
それはパンの素材の栗を拾っているシーンであった。
彼女と彼は、イガが黒くなった栗を大切そうに拾っていた。
これは違うなあ。。。と思った。
こういうイガになってからの栗はもう食えないことを、ボクも妻もよ~く知っていたから。。。
こういうものに入った栗には、まず100%虫がいる。
イガがまだ緑色の栗だって、落ちてしまったものだと、20~30%には既に虫がいる。
本当にパンに使うような栗となると、受粉後に薬を散布してしまうか、まだ枝にしっかり掴まっているうちに落として、割れる前に割って取らなければいけない。
そのことを知っているボクらから見ると、黒いイガを大事そうに取ってきて、その後に、奇麗に焼けた栗入りのパンのシーンが出てきても、リアリティーが全然なかった。
自然をちゃんと観察しなければ、いい映画はできないと思った。
実は、言葉もまた自然をないがしろにできない。
自然をよく観察していなければ、いい言葉は生まれないと思う。
そんなグッとくる言葉のひとつがこれだ。
笑み割れるという言葉。
クリのイガやザクロの実などが熟して、自然に割れる。(新明解国語辞典:第4版)
いい言語学者はいい自然科学者でもあったのだ。