言葉は単なる道具か?

「論理的思考」は大事だ。

それの醸成のために、来年から文科省は高校の国語教育に新体制を打ち出すという。

「現代の国語」と「言語文化」に科目が分けられ、文学作品は「言語文化」にジャンル分けされるそうだ。

そして、「現代の国語」は「論理的思考」の醸成に役立つものを扱うらしい。当然その目的に照らせばこっちが主役のように思える。

ある役人が漏らした話では、「言語文化」である文学作品は論理的思考の妨げになるとのことだ。誰かがそんなことを書いていた。もし、そんなことを真面目に言っているとすれば、やはり、この国はどうかしていると思えてくる。

ビジネス書やプレゼン資料や取扱説明書の類いがすらすら読めて理解できること。

それが彼らのおっしゃる「論理的思考」 なのだろうか。

そう本気で思っているお役人がいる。いや、いるどころかほとんど多数派を占める時代になってしまったのかもしれない。こんな法律が通るくらいなのだから。

一方、これまで一線で日本の現代国語界をけん引してきた方たちほうは、急に論理的思考の妨げ扱いされる。「言語文化」などという、いかにも大仰なジャンル分けだが、それは公共交通機関に見る「お年寄り優先席」のようなものだ。

あのね、君。文学作品などはね、暇人の読むものよ、暇人の。あんなのはね、君、添え物、おまけ、前座、余興にすぎないのよ。だって、論理的思考とはな~んにも関係ないんだから。

とでも言わんばかりだ。

しかし、筆者は声を大にして言いたい!

声を大にして唱えたい!

いい小説からは、ものすごく論理的な思考が育むことができますよ。

ドストエフスキイの『カラマーゾフの兄弟』を読んでごらん。まあ、3回読んだけど、いまだによく分からんが、よく分からんものをまた読みたくなり、また読んで少し分かったとなる。こうやって論理的思考が形作られるのだ(多分)

夏目漱石の『三四郎』『それから』今また読み直してますが、なかなかいいね。

小説の神様、志賀直哉の『小僧の神様』を読んでごらん。志賀ちゃん大好き!

え? 小説は論理的思考の妨げになる?

僕は、小説こそが、単にテクニックとしてではなく、情緒や人としての倫理観も含めてバランス良く論理的思考を育むことができる最高の教材だと信じている。

小説の登場人物に己を投影して、疑似体験することで得られるものは果てしなく大きい。

ダイバーシティ、多様性が叫ばれる中で、このことはとても重要なことだ。

さまざまな種類の人の気持ちが分かる人になることが、ダイバーシティの基本なのだから。

今、世界中で、いろんな差別、ヘイト、虐待がとどまるところを知らない。

それは人が多様な考え方や価値観を知ることを放棄したからだ。

だからSNSのいわば密室の中で、守られた小さな空間の中でエコーチェンバー現象を引き起こす。

特定の考え方が暴走して人を傷つけ、傷つけたほうは傷つけられた人の痛みを理解できず、もっと過激に虐待を続けていく。

偏った思考は、偏った行動を生む。

道具としての言葉が魂としての言葉を駆逐してしまう。

これは人間はロボットになってしまうことを意味する。

心を持たない凝り固まった狭い論理だけで突っ走る人間は、もはやヘイトロボットでしかない。

それが高じるとどうなるか、われわれは何度もその悲しい負の歴史を見てきた。

テクニックとしての論理的思考は人間はロボットに勝てないのだから、そのうち人間はロボットに論理的に命令されて支配されるのが落ちだ。

どうも最近の若者たちの思考が偏ってきたのは、こういった偏った考え方が影響しているのかもしれない。本も読まないし、ましてや文学作品なんて目もくれない時代になってしまった。

ああ、嘆かわしい。知性の人類的行き詰まりを感じる。

本はいいよ。特に文学はいいよ。

夏目漱石先生の「三四郎」を今6章まで読み聞かせしているが、青春の息吹、苦悩、恋愛が心にずんずん迫ってきて、たまらない。

こういう本が読まれなくなり、若い人たちの目に触れなくなるのは、実に悲しいことだ。

だからこそ今、みんなもっと文学作品を読もうよ!

特に若い人よ! 

みんな、本、読もうよ!

「みんな、コメ、食おうよ!」昔あった世良公則のコメキャンペーンを思い出した。



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